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「冷や飯」の効用 2

深見先生の本に、
「本来、人間には、好運期も衰運期もない」
という言葉があります。

脚光を浴びて、
なんでもすいすいうまく行ってる時には、
もうすでに、衰退と滅びが始まっています。
だからこそ、君子たるものは、
己を戒め、謙虚に周囲の言うことに耳を傾け、
道を踏み外さないよう注意する必要があります。

逆に、不運の時、不遇をかこう時こそ、
未来に躍進する下地を作るチャンスです。

冷や飯を食いながら、
じっくり肝を練り、
他者の痛みを知り、
知識と経験を蓄えて、
やがて大活躍する準備をするのです。

『易教』という本は、
すべてこの精神で貫かれています。


菅首相も、
岡田監督も、
いったんはどん底を経験し、
真剣に己と向き合い、
他者を見つめなおし、
来し方、行く末を考えたからこそ、
この6月の躍進があったのでしょう。

そう考えると、
冷や飯を食った数が、
人間の価値であり、
実力であり、
魅力になり得るのです。

同じ事柄でも、
それを不遇・不運ととるか、
未来への種蒔きととるか、
同じ事柄でも天と地の差ですね。


これは普遍的な神の教え。

人種も、宗教も関係なく、
万国共通で当てはまる事柄です。

だから、神は、
将来的に大きく活躍させようとする人間には、
まず、試練を与え、冷や飯をたっぷり食わせます。

これが神の愛です。

父親的な愛であり
先々の永続的な幸せを考えた、
本当の愛です。


今の政界をみても、
脚光を浴びる人もいれば、
新たに「冷や飯」を食う人もいます。

菅氏の登場とともに、
権勢を誇った小沢氏とそのグループは、
今や「干された」状況にあります。

私には、
政治や政策の内容はよくわかりませんが、
皆、神様が使われる「役者」と考えるならば、
小沢氏か、その意志を継ぐ若い政治家の誰かが、
善玉役であれ悪役であれ、
また活躍する日がきっと来るでしょう。

小沢氏が、
「蘇りの里」熊野に参拝されたと聞いて、
そう思いました。


自民党もそうです。
昨年秋に野党に転落して後、
どうにも民主党を攻めきれずに、
もがいているように見えますが、
この機会こそが、
長い与党時代の旧弊や悪癖を一層し、
新時代の政党として生まれ変わる、
千載一遇の大チャンスです。

数年後か、その先か、
自民党が、
あるいは自民党の個々の政治家が、
ふたたび勢いを盛り返す日が
来るならば、
現在の不運、不遇こそが、
その原動力となるはずです。


今、日本の国は、
「古今未曾有の大発展」を迎える
プロセスにあるといいます。

そうなるよう、
神様が、右に、左に、
鍛えておられるのだとか。

内外の政治経済の情勢が、
これほど厳しく、
予測もつかないのは、
やはり、神様の本当の愛です。

「日本の国の繁栄は、
やはり確実に準備されつつある」

…6月初めの雄島雌島神事に参加して、
その後に起こったことを見るにつけ、
そのことを強く実感します。


長い人生には、
時に裁きがあり、
時に試練があり、
困窮し、呻吟するようなことが、
降ってきます。

しかし、それが神の愛。

そんなときこそ、神に感謝し、
「この後に、大きなチャンスが待っている」
と信じて、
勇んで冷や飯を食い、
己を立派に、
大きく成長させたいものです。


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「冷や飯」の効用 1

菅内閣の成立。
そして、
ワールドカップ日本代表の躍進。
この、6月の話題をさらった事柄です。

二つを見ていても、
ふと気付かされることがあります。

それは、
どちらもどん底を経験し、
不遇をかこい、
冷や飯を食った経験が、
躍進のベースになっていることです。

菅直人氏は、
かつて党首だったころ、
自民党政権の閣僚たちに、
年金未納記録があることをあげつらい、
「未納三兄弟」などといって攻撃しました。

しかし、その後、
自身にも未納歴があることが発覚し、
世間の非難が集中。

ご本人は党首を辞任し、
文字通りに頭を丸めて、
四国のお遍路さんに出ていまいました。

これをパフォーマンスだと言う人もいますが、
その惨めさ、悔しさは、いかばかりだったか。
察するに余りあります。

また、その後、民主党に合流した小沢氏が、
党内で勢力を持ってくると、
小沢氏とそりの合わない菅氏の立場は、
かなり難しくなりました。

厳しい状況を、
我慢に我慢、忍耐に忍耐を重ねて、
政界を生きてこられたといいます。

今回の首相就任は、
鳩山氏の自滅のよる棚ボタですが、
ひたすら続けた忍耐に、
ようやく花が咲いたものといえるでしょう。


サッカーの岡田監督もそうです。

1998年のワールドカップフランス大会では、
主力選手である三浦カズ氏を直前で外した上、
さんざんな惨敗を喫したことで、
大変なバッシングを受けました。

それから10年。

オシム氏が倒れるという非常事態だったとはいえ、
もう一度、日本代表監督を受諾するにあたって、
かなりの勇気が必要だったでしょう。
しかも、「谷間世代」と言われるように、
数年前と比べ、戦力的に劣るとされた
チームの監督を引き受けたのです。

悪いことに、
主力選手を怪我で欠くなどの不運も重なり、
肝心のワールドカップイヤ―の今年を迎えて、
日本代表は絶不調。
直前の強化試合は4連敗です。

これには日本国中の怒りが爆発し、
岡田監督の退任を望む声が9割に達し、
本人も一度は辞表を用意したといいます。

そんな中で、
腹をくくり、
迷いを振り切って行った戦術変更が、
ずばりと当たったのです。

そして、運のいいことに、
そこに、本田や松井、長谷部といった、
若いスタープレイヤーたちが揃い、
最高のタイミングで間に合った。


政治とスポーツという違いはあれど、
いったんはどん底に沈み、
冷や飯を食った男達が、
時宜を得て脚光を浴び、
一躍スターダムにのし上がったのが、
この6月でした。



全てのことに感謝できるか? 4

…ということを、
私は過去にこのブログに書いてきたはずなのに、
まだ、心の中にいくつかわだかまりがあったようです。
気落ちの原因は、それだったのです。


昆布縛りを書いたおかげでしょうか、
深見先生の講義テープの言葉が頭をめぐり、
自分で気づかなかった事柄を気づかせていただきました。

現実的にこだわりがあったいくつかのことが、
具体的に思い起され、
「これも神の試練だ」
「あれも神鍛えだったんだ」
と心の底から思えたのです。

そして、腹の底から、
感謝の気持ちが湧いてきました。


人間が生まれてくるのは、
地位のためでも、
名誉のためでも、
財産のためでも、
家族を残すためでもありません。

御魂を磨いて立派になるためであり、
世に善行をあらわして人を幸せにするためです。

しかし、自分が立派になった分しか、
人を幸せにできないのですから、
自分を立派にするようなことが起これば、
それが一番幸せなことです。

困難も、困窮も、呻吟も、葛藤も、
すべてそのための糧です。


そういえば、
今年の伊勢神業で、
下のような深見先生の詩が配信されました。

昆布縛りを書いた後に、
この詩のことがありありと思い起こされ、
メルマガの過去ログを引っ張りだして、
一日中、読みふけってしまいました。

やはり、
「すべて神がなさっていることだ」と確信し、
苦労を明るく受容して、感謝できるところに、
本当の信仰心、菩提心の如何が問われていたのです。

短い言葉に込められた、
深見先生の悟りの深さ、
表現の素晴らしさに、
あらためて脱帽です。


ワールドメイトには、本当の神が降りています。
それはお陰信仰や、証を出すための神ではなく、
本当の意味で人々を幸せに導き、幸せにされる神です。

わずか一枚の昆布縛りで、
これだけのことを改めて思い出させていただき、
心の奥にあった苦しみの根源を取り去っていただいた、
素晴らしい神体験でした。


―――――――――――――――――――――――――――――――――

◎詩

 天が定めた人ならば
 試練多く
 苦労も多い
 その分
 人が磨かれ
 立派になる
 立派な人でなければ
 人はついて来ず
 導くこともできない

 人を導き
 人がついてゆく人が
 世に灯(ともしび)を照らし
 光明になる人である
 暗い世に
 光明を照らす灯は
 そんな人である
 神々も御仏も
 天使も神仙も
 その人を待つ

 神定めの
 指導者とは
 志高く
 志を貫き
 それ以上に
 苦労を受容して
 常に明るい

 そのために
 若い頃から
 苦労させられる
 人の苦しみや
 辛さや悲しみを
 誰よりも
 知るためである

 だから若者よ
 今の苦労は
 そのためにあるのだ
 そう信じて
 その志を貫くべし
 全ての不運も
 神の与えるものだ
 そう信じてこそ
 信仰と言える
 信仰さえあれば
 どんな事でも
 明るく乗り越えられる
 これ菩提心
 菩提心は
 悟りの根源心なのだ

 全ての苦労や問題は
 何とかなるものだ
 何ともならないのは
 今の自分の
 気持ちだけである
 その気持ちを
 何とかせよ
 信仰に生き
 菩提心を振るい立たせて

 東州

全てのことに感謝できるか? 3

天神様だけではありません。

深見先生とて、凄まじい濡れ衣を着せられ、
国家権力やマスコミに弾圧された事件がありましたが、
すべて信仰上の糧として受け取られ、
信仰者として誰よりも雄々しく乗り越えられました。

しかも、深見先生の場合は、
さらにその上で、現実的な戦いの全てをしのぎ切り、
そのことごとく勝利し、災いを転じて飛躍のチャンスとし、
関係するすべての人々を幸せにされた上で、
ご自身は、今や誰よりも立派な社会的信用と評価を築いておられます。

こういう生きた証を、
私たちは目前で見させていただいているのです。


…無論、天神様や深見先生と私たちでは、
文字通り、天と地ほどの開きがあります。

全く同じように考えるのは、失礼だし、傲慢です。


なにしろ、私たちが、「理不尽」だと思うことは、
たいてい、周囲から見ると、
「もっともだ」と思うことばかりです(笑)。

すなわち、私たちが未熟で、
知識も経験もなく、
実際に周囲に迷惑をかけているからこそ、
それ相応の報いを受けていることがほとんど。

「理不尽」だとか、「濡れ衣」だとか言う前に、
謙虚に目上や周囲に頭を下げ、
どこがどのように悪かったのか教えてもらって、
反省して己を改めれば、たいていのことは解決します。

その意味で、自己正当化は厳禁です。

せっかく、神様や周囲の人々が、
自分の短所を補い、
長所を伸ばす機会を与えてくれているのに、
そのチャンスをみすみす摘み取ることになります。

(神様が悪いとか、人が悪いとか言って、
信仰の道を離れてしまう人が大勢います。
勿体ないことです)


…しかし、そういうときだからこそ、
やはり、「神様が自分のためになさっているんだ」という、
信仰の基本に立ち返ることが重要なのではないでしょうか。

そう思って、
謙虚に神様に語りかけるところから、
神との交流が始まり、気づきが始まり、悟りが始まります。

自分が間違ってたところに気づき、
改善することができるのです。

そしてさらに言えば、
足りなかった、未熟だったとはいえ、
神のため、人のために捧げた誠と真心は、
ひとつ残らず、きれいに神に受け取っていただけます。

この世の人が報いてくれないぶん、
いつかきっと神がすべて返してくれるのです。

そう思って、感謝できたときに、
信仰の道に生きる者として、
また、現実的にこの世に生きる人間としての、
本当の開運が始まります。

結果がどっちに転ぼうと、
絶対に幸せになるしかない人生。
究極の幸せと喜びに包まれる人生です。


また、この世では、どうしようもならないことは、やはりあります。
もうどうしようもなく、ただ諦めるしかないとき。

たとえば、近親者が亡くなったとか、
事故や病気で、体の機能が永遠に損なわれたとか、
何かの罪を着て牢に入ってしまったとか。
その事実は消しようがありませんし、
その事実とともに生きていくしかない。

そういうときはもう、
神に受け取っていただき、
神に報いていただくしかありません。

しかし、そう思い、
そのように神に投げ、
そのように感謝を捧げたならば、
神は必ず受け取って下さいます。

究極のところ、
全ての人は最後には死ぬわけですから、
この世の結果などはどうでもいいのです。
死んで残らないことに拘っても仕方がありません。

目に見えざる神の世界を基準に置けばこそ、
やはり、どっちに転ぼうと、
絶対に幸せになるしかない人生になります。
究極の幸せと喜びに包まれる人生です。


すべてのことが、
神が自分を幸せにしようとしてなさったことを、
その時に心の底から実感することができるし、
その時に自分は、
本当の意味で幸せになれる。


どんな困窮も、困難も、
苦しみも、理不尽も、
絶望も、屈辱も、孤独も、恐怖も、
そう思い、神に感謝できた瞬間に、
幸せの糧になる。


そうではないでしょうか。

全てのことに感謝できるか? 2

いいことがあったときは、
信仰心がない人でも神に感謝します。
宝くじが当たったり、
絶世の美男(女)からプロポーズされたら、
誰だって「神よありがとう」と言いたくなります。

しかし、思い通りにならないとき、
理不尽なことがあったときに、
それでも神に感謝できるか?
これは信仰心がないと難しいことです。

絶望するようなこと、
絶叫するような不安と恐怖、
歯噛みするような屈辱感と敗北感。
身もだえするほど嫌なことが起こる。

それでもそれを、
「神が自分に与えた試練であり、
これを通して自分を立派にし、
周囲も自分も、
幸せにしようとされているんだ」
と、腹の底から信じ切れるのは、
よほどの信仰心です。

そして、
腹の底から信じ切れないと、
感謝の気持ちなど、
湧いてくるものではありません。

ということは、
神が本当に信仰者の信仰心を磨き、
試そうとすれば、
とても神に感謝できないようなことを、
起こすことがあるのです。

だからこその、神試しなのでしょう。

事実、歴史上の神人や真人と言われる人は、
みんな、「理不尽」な目にあっています。

濡れ衣、言い掛かり、裏切り、謀略。
本人は全く悪くないのに、
左遷されたり、弾圧されたり、牢に入れられたりします。

日蓮上人でも親鸞聖人でも、
出口王仁三郎師でも、
そして深見先生も、
みんなそうです。

そういう目に、
必ず一度は会ってます。

人類で最高位、天神の位にのぼられたという、
菅原道真公ですら、藤原一族の姦計によって、
濡れ衣を着せられ、大宰府に左遷され、
泣き叫ぶような屈辱感と憤りの中で、
数年間を過ごされたといいます。

学識経験もさることながら、
政治、経済、外交、軍事、安全保障など、
国政の全般にわたって、
膨大な功績を挙げられた菅原道真です。

その全ての記録が改ざんされ、
他人の手柄にされた上、
讒言により、全くの無実の罪で、
ご本人は謀反人とされ、
位階を下げられ蔑まれた上で、
事実上の幽閉です。

朝廷のため、国家のため、
尽くしに尽くしてこれらたのに、
その結果がこれでは、
誰だって理不尽に思うのは当たり前です。

道真公が残された膨大な歌や文章を読めば、
大宰府配流にあたって、
その悲哀、悲痛の情が、
切々と胸に迫ってきます。

さぞや、悔しかったことでしょう。


しかし、ある日、ふと気付かれた。

いろいろあったが、
自分は神のため、帝のため、民のために、尽くしてきた。
自分や一門の地位や名誉、財産のためでは、もとよりない。

この真心は神がお受け取りになっているはず。
この世で報われたかどうかは、関係ない。
この世の評価や、位階の如何はどうでもいい。
この誠が、天に届いたらそれでいい。

…そう悟り、腹をくくり、
天にその思いを投げたとき、
菅公がお召しになっていた着衣は、
雲の間を縫って、天高く昇っていったそうです。

天神様が神上がりされた瞬間です。


理不尽なこと、
到底飲みこめないことだからこそ、
神の与えた試練です。

尽くしたのに裏切られ、
この世で報われなかったからこそ、
神が報いてくださるのです。


本当の、本当の、
信仰のぎりぎりを極めようとすれば、
必ずそういうことが起きるはずです。

そして、逆にいえば、
その、受け入れがたいことを乗り越えたらならば、
信仰の道は必ず成就するはず。

信仰者の価値は、
(存命中の)この世での評価や、信者の数、財産や位階などでは決してなく、
ただ、ただ、神が生涯かけたその誠と真心をみそなわせたかどうか、
その一点にかかっているのですから。


全てのことに感謝できるか? 1

恐らくは昆布縛りの証です。

実のところ、この4月、5月と、
少し気分がすぐれないことが多かった。
むしゃくしゃする、というか
気持ちが沈む、というか。

「こういうときは生霊だ」
ということを昔聞いたことがあったので、
せっせと「被面布」霊璽を書かせていただきました。
(生き霊を祓っていただく霊璽など)

ところが、
一時はすっとするのですが、
また、気持ちが沈む。
どうやら生き霊ではないようです。

結局、何が何だかわからくなったので、
「昆布縛り」にそのまま書きました。

「この気持ちの落ち込み、
見通しの暗さ、
悲観的な想念の原因を、
ことごとく封印したまえ」と。

そして、雌島雄島でのご神業が終わった後です。

車の中で、
昔の「声のご神業」や「マストメッセージ」を、
エンドレスで聞いてました。
後席で、半分うとうとしながらでしたが・・・。

すると、深見先生のお言葉が耳に飛び込んできました。

「神試しや、神鍛え、神の試練というものは、
その事柄に本当に感謝できたときに、終わる」

「心の底から感謝できたときが、
神の試練を乗り越えたときである」

びびびびびびびび
…という感じで、胸に響いてきました。

嫌なこと、苦しいこと、困難なことは必ずやってくる。

それらを、神に対して感謝できるかどうか?

信仰とは、その一点にかかっているのだ…。

…そんな思いが、頭の中をぐるぐる回って
やがて、がんがんに響いてきたのです。


実は、数年前からうまくいかないことがあり、
自分なりに「理不尽だ」と思いながら、
どうにもならないので放っておいたことがありました。

自分としては、
なんとか乗り越えようと思うものの、
何をどう乗り越えてよいのかわからない。

基本的に自分は悪くなく(未熟ではあったのですが)、
明らかに他人の責任だという思いがあり、
むしろ、騙されたとか、裏切られたとか、
そういう思いが湧いてくるのです。

もっと、突きつめれば、
あれだけ神様に祈りながらやってきたのに、
何ひとつとして祈らずにやったことはないのに、
なんで自分がこんな理不尽な目にあるんだろう?
…という思いが、心のどこかにくすぶっていたのです。

「まあ、いいや。
自分も若かったし、
きっと神様が僕を鍛えようと思って、
試練をお与えくださったんだ」
そう思うように努力しようとしては、
それでも疑問が湧いてくる。

その繰り返しでした。

正直なところを言えば、
「こんなことが起きるなんて、
とても神様のおかげなんて言えないな」
という思い。

それが、胸の奥にくすぶっていたのです。

しかし、それこそが、神様の動かれた証だったのです…。

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Son of Zeus

Author:Son of Zeus
ワールドメイト的、実験劇場です。
本当に神が実在し、人を幸せにしてくださる「現実」を実感しましょう!

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