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でも、そういう紆余曲折は誰にでもあります。
越えられるかどうか、
ギリギリの試練であってこそ、
本当に魂が成長するのです。
特に、
一生の発願が成就するかどうかの瀬戸際には、
「どうしてこうなるんだ」
「もう嫌だ」
「投げ出したい」
と、絶叫するような日々が続きます。
そうあらねばおかしいのです。
若き日の西郷隆盛だって、
失意のうちに自殺未遂をしています。
天神様ですら、左遷されて長い間、
嘆き悲しんでおられた様子が、
美しい歌となり、文章となって今に残っています。
修業時代の深見先生でさえも、
何度か「家出」をされたといいます。
(エンゼルビデオか青山塾ビデオで、
植松先生のお宅を飛び出し、
自転車で一周して帰ってこられたというお話がありましたね。
深見先生は、おもしろおかしく笑い話にしておられましたが、
本当にギリギリのお苦しみだったことと拝察申し上げます)
そうした「どん底」状態の中で、
ギリギリまで葛藤し、
「死んでしまいたい」と思いながら、
絶叫するように神に祈ってこそ、
御魂が磨かれ、真の意味で成長する。
・・・深見先生は著作でも、講演でも、
そうなるものだと最初からおっしゃっています。
しかも、それは、忍耐と根気を要求されます。
いつ果てるともしれない苦行があり、
先の希望など、到底持ち得ないような気持ちになり、
このままやってても仕方ないと思えてくる。
でも、そういう時が勝負なのです。
99回へこたれそうになっても、
100回目にもう一度立ちあがってくるかどうか。
神様はそれを見ておられるのです。
試練がやってきたときに、
それを神が与え給うたものだと思いなおし、
無理やりにでも感謝して、
また一歩を踏み出せるかどうか。
神様が試しておらるのはそこでしょう。
試練というのがいかにありがたいものか。
それは、現実の社会をみても一目瞭然です。
苦しみや困難を越えたことのない人は、
職能力でも、人間関係でも、精神力でも、
そうでない人より明らかに劣ります。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言いますが、
神様を信じるとかどうかは関係なく、
苦労の足りない人は、社会で勝ち抜けないのです。
世の中の一般法則です。
だから、試練がやってきたときには、
より立派な自分になるよう、
神様に磨いていただいているんだと、
感謝するのが本当の態度だといえるでしょう。
そして、感謝できた瞬間に、
たいがいの場合、
苦労や葛藤が散っていきます。
ワールドメイトにいて、
そうしたことを経験した人は多いのです。
そしえ、そんな経験をした方は、
皆、例外なく立派な人になっており、
支部であれ、社会であれ、
人から尊敬され、
人を幸せにできるような人になっておられます。
これは、私自身がこの目でいくつも見てきた事実です。